2006年07月24日

若冲展覧会評

 今回はインテリゲンチャ風の文体で書かせてもらいます。たまにはいいでしょ?


 先日伊藤若冲の絵画を見に行った。若冲といえば江戸18世紀を代表する日本画家。ちょうど江戸絵画の巨匠、尾形光琳と入れ違いになって京都に生まれた。


 JR東京駅に降り立ち、丸の内北口に向かう。宮内庁三の丸尚蔵館に行くためにはここがいい。他にも乗り継げば近い駅はあるが、面倒臭かったためにここからの出発にした。三の丸尚蔵館は東京駅丸の内北口を背に真直ぐ10分位歩いたところにある。


 今ここの展示作品は尾形光琳にあこがれて独学で光琳を学んだ酒井抱一という江戸時代19世紀の画家の絵と、伊藤若冲の動植綵絵というのが展示されている。 他にも他作家の展示品があるけれど、それはたいしたことない様に思われた。


若冲鳳凰.jpg 


 この若冲の絵が今の時期の展覧会の見どころのひとつ。手塚治虫の火の鳥に出てきそうな陰気な目をした鳳凰が描かれていたり、若冲得意の鶏が描かれていたり、水辺の生き物や海中の生き物だったりと確か6点が展示されていた。


 伊藤若冲の動植綵絵シリーズは確か30点くらいあったような気がするけれど、嘘かもしれない。この点に関しては自信がない。ただ、連作のシリーズであることは確かでこの一連のシリーズは若冲が京都の相国寺の仏教信者でお布施として寄附した作品だと聞いている。


 この絵の細部を見ていると、若冲の仏教に対する真摯な姿勢が全ての部分に手を抜かないという質の高さから十分に感じられた。そう、この絵の見どころとは、全体のバランスもさるものながら、細部の細やかさもそのひとつ。一本一本の細い線が大変デリケートで私のような凡人にはとても描けそうにない習熟したせんで、若冲の特徴である執拗さも現れている。できれば単眼鏡を自賛してガラスケース越しに細部を拡大して、なめるように全体を見ていただきたい。


若冲鶏.jpg


 たとえば、鶏の毛並み。一本一本の羽根の毛が丁寧に描かれていて鶏の羽根の質感がとっても心地よくこちらに伝わってくる。それは羽根のやわらかさとかツヤとかいったもの。実際に鶏の羽根がそうなのかは知らないけれど。

 
 その後に、上野の東京国立博物館に移動。昼食も食べずに夕方まで江戸時代のアバンギャルダーの絵画を鑑賞した。例えば長澤芦雪、曽我蕭白、円山一派、伊藤若冲。彼らの絵画は細部まで手を抜かず、なおかつ、遊び心も感じられる。まさにアバンギャルドで芸術の先駆者と言った感じがした。彼らの感覚はモダンアートの中においても新鮮さを失わないように思われる。


 若冲のタイル絵と呼ばれている屏風絵がそこにはあって、ひとつの見どころといってもよい。屏風の上はもちろん紙である。しかし、そこには何故かタイルが貼ってある。


 実際はそんなことはないけれど、隣で観ていたの中年の女性はタイルだと思っていた。そのくらいタイルを屏風に貼り付けたように見えて、だまし絵のようだった。その中のキャラクター一つ一つは子供向けの絵本に登場するような愛らしさがあって面白い。私はこの屏風を眺めていて、若冲の絵画は仏教的に十分に説明できると確信した。


 図を挙げないで説明するのも気が引けるけれど、少し紹介させてもらうと、右隻の左から三曲目には龍と獅子を足して二で割ったような現実にはいないと思われる動物が描かれている。その上のほうには黙渓の観音猿鶴図に描かれるような猿が描かれていて、そのかたちは仏教的な猿のかたちを継承している。右から二曲目(?)の象も仏教では普賢菩薩の乗り物になる。左隻に目を遣ると、左から二か三曲目に鳳凰か孔雀(たぶん鳳凰だと思う)がいる。鳳凰だとしたら、こちらも空想上の生き物だということになる。そして、中央部の連なる一連の鳥の群れは、正倉院の琵琶のカンパチ部分に描かれる、遠山に向かって飛んでいく雁の群れを想起させる。

 
 ざっと挙げただけでもこれだけの仏教との関連を指摘できる。あくまでも、私の思いつきなので反論はたくさん出ると思うけれど。


 展覧会の全体を眺めてみると、やっぱり、東博の特別展も細部の面白さが際立った。たとえば、入ってすぐ向かって左側に展示されている一群の掛け軸、らくだとか虎とか猿とかがある。その一連の掛け軸群の中で、猿の絵が二つ並んでいる。その右側の絵なんかはよく細部まで眺めてみると、手前の猿が右手に何かを掴んでいる。そのことが分かると、獲物に向けられた猿の視線を感じられる。そして、その獲物を睨みつける猿にも表情がある。その後ろにいる猿も同じような表情がある。


 こうやって、細部を眺めているとハッとするような発見が少なくない。絵を鑑賞する時の私の醍醐味の、ひとつの楽しみになっている。作者との対話、作品との対話そんな風に思っている。そんなことは私の勝手だけど。

 
 そして、若冲展を出ると先にはもうひとつブースが続いている。琳派展だった。この琳派展では照明を変化させることによって屏風の見え方が変わるという面白い展示だった。


 たとえば、光が強いときには屏風全体がフラットな見え方をする。逆に光が弱くなっていけば屏風の印象に深みが増す。つまり、奥行きが出て、立体的に見えてくる。


 この、魅せ方のアイディアは私にはアバンギャルド的に思われた。目からウロコが落ちたといった感じでとても興味深かった。


 たしかに「屏風が作られた時代―江戸時代―にはこういう見え方をしていたんだろう。」と思った。朝起きた時の屏風の見え方。お昼の明るい時の屏風の見え方。それから昼下がり、夕方へと変化していく明るさの中で実際に屏風を使う場面に即した、本来の屏風絵の見え方だと思った。


 美術は美術館で。という固定観念から一定のライトに照らされた作品が当然の美術だと思ってきたわけだが、それは近代的な発想であったのだとハッとさせられる。私にはそんな新しい発見だった。


 光のイリュージョンでいろんな見え方を鑑賞者に見せるという今回の試みは、今後展覧会で主流になっていくと私は勘繰っている。そのくらい今回の光の効果的な利用というのは魅力的な試みだと感じた。学芸員の方の遊び心を感じて、見習うべきだと思った。


 私はアバンギャルドな学芸員にはあこがれる。学芸員は研究もしなければならない。そして、美術史の中で語り合っている研究の中から、出来るだけ本質的なものを取捨選択して、社会に還元していかなければならない。


 学芸員とはそういう仕事だと最近思うようになった。その努力をしなければ、美術は「崇高」なものとして崇められて、どんどんと人々からは遠い存在になっていく。


 だから、そんなことにはならないように努力しなければならない。そんな仕事をしてみたいと思った。
posted by にわか at 20:58| Comment(0) | TrackBack(0) | 伊藤若冲 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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