2006年04月17日

知る人ぞ知る名品

 東京国立博物館へお出かけの際は是非本館の常設展示室を訪問してください。そこの第十室には浮世絵の展示室があります。そこの中央には窪俊満という人の「夜景内外の図」という作品版画が展示されています。

 窪俊満という人名なんて聞いたことないですよね。私も恥ずかしながらしりませんでした。

 その作品は江戸の18世紀の作品だそうです。三枚の版画を組み合わせて一つの画面を作っています。なんで三枚かというと、Kentという紙の企画が定着し、それ以外の大きさの紙で版画をすると高くついてしまうからだそうです。「見当違い」はここから来ているという説もあるそうです。実際のところはよく知りませんが。

 この作品は12段階の版で作られているそうです。よく作品を眺めてください。黒一色ではなくって、黒色でも少しずつトーンが違っています。左下の建物の前に置いてある灯篭のようなものから光が出ています。

 その光に照らされて、女の人(だったと思います)の足元が少し明るくなっています。木の木目の表現も繊細です。女性の顔や表情も他の作品と比べて繊細です。

 こんなところにしておきましょう。細かいことは忘れてしまいました。余に圧倒されてメモを取り忘れてしまうという失態をしでかしましたので、ご容赦を。

 そのほかにも浮世絵の部屋には鈴木春信筆「三十六歌仙・在原業平朝臣」があります。この頃の春信作品は別格だそうです。顔が違うということです。左隣の春信の作品の顔とくらべてみてください。なんと「三十六歌仙・在原業平朝臣」の手の込んでいることでしょう。それはパトロンがしっかりしていたためだそうです。

 部屋に入って右奥にも窪俊満の「群蝶画譜」があります。これも蝶の羽に金が注してあったり、左下の青白っぽい蝶のその下には薄く銀が張ってあったりとよくよくよく見ないと分からないところまで手を込んでいるという周到さです。

 後は、尾形光琳の「風神雷神図屏風」も出ていますし、絶対行って損はありません。改めて東京国立博物館のキャパシティーのでかさを感じました。

 単眼鏡を持っていくと細かいところまで拡大して見ることができるので便利だと思います。また下の広告を押してご協力をお願いいたします。

  
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2006年03月06日

「九州から見た雪舟」福岡市美術館―なぜ九州で雪舟か(2)

 ご無沙汰です。惰性に任せて、サボっておりました。

 「九州から見た雪舟」福岡市美術館について、とっても重要なことを扱うことを忘れていました。いまさらながら、「なぜ、九州で雪舟か」

 水墨画といえば室町時代。ということになりますが―もちろん雪舟も室町時代です―室町時代は室町幕府で中心は京都。だから、雪舟も京都。というわけにはいきません。先回も軽く触れたと思いますが。

 雪舟は40歳前後で今の山口県に移住しています。それはなぜか。まだよく分かっていませんが、かいつまんで紹介させてもらいますと、雪舟の家柄はそれほど高い家柄ではなかったため、血統主義だった京都の寺院では出世が望めなかったために、地方へと去っていった。という説と、今の山口県あたりを納めていた大名は大内氏というとっても力を持っていた大名で、京都にあこがれていたその大名は京都の文化を自分の領地にも根付かせようとした。そのため、京都で絵を得意としていた雪舟をその一環として招聘した。という二説が有力です。

 私は後者を支持しています。

 というのは、山口県の旧香積寺伝来の「維摩図」が伝承されていて、本格的な仏画でとっても大きいことから、雪舟はお寺の仏事を行う絵を描く専門画家として、大内氏に頼まれて山口県に下ったのではないかと思うからです。

 そして、応仁の乱の頃に、中国に渡っています。何のために中国に渡ったのかは少し不明なところですが、かなり絵を勉強したことは間違いないでしょう。先回紹介しました拙宗と帰国後の雪舟の絵を見比べると劇的な上達がうかがえます。

 雪舟は中国に渡るまでに二年ほど山口県で待っています。いろんないざこざがあったために、出発が遅れたのでしょう。そのときに、九州に行っていたのではないでしょうか。

 帰国後に行っていたのかもしれませんが、確かに雪舟の伝来を持つ九州にまつわる絵が伝わっています。たとえば、鎮田瀑図 (図は現地案内図より転載)は大分県の有名な滝です。

chinda33.jpg

ただ、この図は狩野常信の写しではないでしょうか。現物は今は焼けてなくなっています。

 また、雪舟の弟子では秋月という雪舟の弟子の中で三本の指に入る画家も九州の鹿児島の出身だそうです。今回の展覧会ではなぜか取り上げられていないので残念ながら観えませんが、絵は弟子のなかで雪舟にもっとも近いようです。ただ、雪舟ほどの迫力はありません。

 雪舟の迫力ってどこから来るんでしょうね。筆のスピードかもしれません。筆を早く動かして書くと、躍動感のある絵になります。筆をゆっくりと動かすと動きのない感じが表れてきます。

 それが最もよく比較できるのが雪舟の「慧可断臂図」かもしれません。

(図1)雪舟慧可断臂図.jpg

 はい、奥の白いおっさんが「達磨さんが転んだ」で有名な達磨さんです。手前の腕をちょん切って泣きそうになっているおっさんが達磨さんの弟子の慧可という人です。

 達磨さんの輪郭はすごく丁寧にゆっくりとした線で描かれています、もっといえば、達磨さんの線の外側はなぜかうっすらとぼやを描きこんでいます。隈というやつでしょうか。

 一方で、背後の岩はとってもスピーディーにリズミカルな線で描かれています。この筆のスピードは明らかにわざと変えているはずです。なぜこのようなスピードの変化をつけたのかは分かりません。調査中です。

 ちなみに、「慧可断臂図」も展示されません。ごめんなさい。関係ない絵ばかりあげてしまって。

 今回の展覧会は弟子の作品が多いです。雪舟の弟子の達磨の作品が2点でているので、参考にするとよいかもしれません。慧可断臂図の達磨とはかなり違うと思いますが。

 作品の出品リストを一見すると、道釈・人物画というジャンルに類する作品が目立ちます。つまり、九州や山口での雪舟の道釈人物画家としての一面を見てくださいということでしょう。ちなみに雪舟は山水画家として有名です。

 でも、実は雪舟の道釈・人物画は意外と多かったのではないかと最近考えられてきています。そんな一面を九州で絵を見ながら考えてみてはいかがでしょう。

 

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2006年02月26日

「九州から見た雪舟」福岡市美術館―雪舟と拙宗(1)

拙宗山水.jpg 雪舟 四季山水図春.jpg 周文山水図.jpg

 さて、どれが「雪舟」筆の絵画でしょう?






 正解は真ん中の絵です。これは雪舟の「四季山水図春景」と呼ばれています。典型的な雪舟図といってもよいのではないでしょうか。この絵はよく中国的と言われますが、手前の岩の感じなんかは雪舟感がよく表れているような気がします。

 「雪舟」の絵は真ん中ですが、実はこの3つの絵画には関連があります。

 向かって左の図が拙宗の「山水図」と呼ばれる絵です。右の図が周文の「山水図」と呼ばれる絵です。

 さて、「拙宗」なんと読みますか?

 「セッソウ?」「セッシュウ?」

 はい。「セッシュウ」と読んだときに「おや!?」と思いましたね。「セッシュウ」=「雪舟」だと発想されたと思います。じゃあ、「拙宗」って?

 現在では中世水墨画の研究者の多くは「雪舟」=「拙宗」だと認識されています。みなさんの直感は今のところ正解というわけです。

 では、なぜ漢字が違うのでしょうか?

 そもそも、雪舟が「雪舟」と名乗り始めたのは雪舟が40歳を過ぎた頃なのです。「雪舟二大字説」として、その由来は知られています。詳しいことはここでは知らなくても不便はないので端折りますが、興味がある方は検索をしてみたらいかがでしょう。まぁ、そんな程度です。

 そして、それ以前は雪舟は「拙宗」と名乗っていた。というのが現在の一般的な認識となっています。つまり、「拙宗」は「雪舟」の全身ということになりますね。

拙宗山水.jpg 周文山水図.jpg

 左は上に挙げました拙宗「山水図」で、右は伝周文「山水図」です。拙宗の岩にへばりつくような幹を屈曲させて立つ樹木や葉の形とか、幹を真直ぐにする樹木と林の形などは雪舟敵と言えるのではないでしょうか。その真直ぐの樹木をみるとときどき、長谷川等伯の松林図を思い浮かべてしまうのですが、私だけでしょうか。

 右の伝周文「山水図」ですが、実は周文の絵は「これは確実」といえるのがありません。絶対数がなかったり、歴史の中で周文という名前が雪舟と並んで、いや、それ以上に大きかったためだったりするのがその理由だと思います。

 けれども、雪舟は周文を師としてリスペクトしていたことは史料でわかっていますから、リスペクトしているのなら、周文の絵画を勉強しているわけだし、もちろん、雪舟(拙宗)の絵画の中にも周文の特徴が少なからず現れてくるはずです。

 拙宗の「山水図」には楼閣を載せる頂の大きい岩山が表されています。その岩山の形はいかに示します周文の岩山に似ています。

 Shubun_-_reading_in_a_bamboo_studio.jpg

 どうですか?

 一方で、筆法は強化され、水墨の量も増し、岩谷樹木の形態、屈曲には雪舟の鋭さが加わっています。

 今回は雪舟と拙宗つながり、拙宗と周文の関係を見てみました。実物を見るのが一番刺激を受けると思います。こんな風に一つ一つの形の特徴とか系譜を頭に入れながら絵画を見てみると、「ぼんやり」と見てきた水墨画もおもしろく見えてくるのかもしれません。

 ちなみに、福岡市美術館はこちらです。

 トリノオリンピックでは荒川さんが金を取りましたね。上位三選手の動きはやはり華がありました。村主さんの演技はもちろんよかったですが、やっぱり、上位三選手よりは一歩後退していたと思います。美しいさを見ることは美術だけに限らず、我々の感性によい刺激を与えてくれますね。

 いろんな「美しさ」を楽しみながら豊かな感性を磨いていきましょう。

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2006年02月19日

雪舟について

雪舟 天橋立図.jpg

雪舟筆「天橋立図」京都国立博物館蔵

 雪舟はすごく有名な画家でいろんな研究がされています。

 たとえば雪舟の出自や住んでいたところ、師匠がだれで、中国で絵画を勉強したことなどたくさんのことが知られています。けれども、そのほとんどが「たぶん...」ということなのです。

 「それが本当かどうか」はまだだれも分かっていません。「確かにそうだ。100%そうだ」とは永遠に言えないとは思いますが、10人の人がその話を聞いて10人の人が「確かにそうかも知れないな」と思うような説を世に生み出していくというのが我々のアカデミックに研究している者の使命だと思っています。

 「何が言いたいのか」というと、確かに「前提」とされている、つまり「常識」と考えられている事柄は大変たくさんあります。けれども、その「前提」は確かなものか。そのあたりから疑って自分の足で調べてみる。そんなことが実は非常に重要なことで、考えることの根本なんでしょうね。何でもそうだと思います。

 したがって、これまで考えられてきた雪舟像について、一考してみたいと思っています。

 まずは「拙宗と雪舟について」考えてみるとしましょう。「拙宗」ってご存知ですか?一般には知られてないかも分かりませんが、我々の世界では超有名事項となっています。

 そんな話から次回はじめてみたいと思っています。もちろん「絵画」を中心として取り上げてみるつもりですのでまた是非付き合ってやってください。

 今日はイントロダクション風(イントロダクションにもなっていませんが...汗)になってしまいましたが、声援のクリックをして帰ってください。

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2006年02月15日

紅白梅図屏風の見どころ―番外編

 今回でとりあえず、紅白梅図屏風は最終回ということにいたしましょう。実質先回を最終回にしていただいても構いません。で、今回は番外編ということで、面白い見方を紹介したいと思います。けれども、これからお知らせする見方というのは見方によっては「リビ道」的だと感じられるかもしれません。

 はっきりいって、劇薬だと思います。素直にこれからも紅白梅図を見たいと思われる方は読まないほうがよいかもしれません。業界では有名な論文の一部で、執筆者も第一線で活躍をされていた偉い学者さんの論文です。

 小林太市郎という神戸大学の教授をなさっていた先生の論文で、少々古い論文ですが、その内容は全く色褪せてはいないといえるでしょう。それを読んだ者に与える絶大なインパクトとその後の紅白梅図屏風に対する見方に革命を起こすいわば劇薬なのです。

 紅白梅左隻.jpg 紅白梅右隻.jpg

 「嬲る」という字は「男」の間に「女」が挟まっています。その構図がまさしく紅白梅図屏風の構図だという説です。

 そう、図中で「男」に当てはまるものが紅梅と白梅です。今から出てくる中村内蔵助は光琳のパトロンとされている人物ですが、詳しく述べると長く厄介ですから端折ります。向かって左の白梅が尾形光琳だそうです。そして、右側の紅梅が内蔵助だそうです。

 いまから、小林市太郎先生の文章を少し引用しましょう。

 「(前略)それはとにかく、この屏風はまったく嬲るという字を絵で描いている。
 まず、中央の豊満な水の流れ、それがちゃんと女体になっていることを、なぜ人は見ないのであろうか。仰むけにのけぞった頸から胸の乳、みずおち、なだらかな腹、恥骨のあたり のやわらかなふくらみにいたるまでを、その正面はこまやかに魅惑豊かにあらわしている。
 また背面はわざと巨大な尻をつき出して、後ろからそーっと忍びよる紅梅すなわち内蔵助をはじき返している。いざこれから玉樹後庭花でゆこうというたのしいところを、肘鉄ならぬ尻鉄くってどんとはねとばされた紅梅は、おどろいて両手をあげ、だあとなって両足をひろげ、一物勃起したままどうにもならずにしゃきりたっている。
 これに反して光琳の白梅は、太く逞しく強ばって重量感ある大きい根をゆらりゆらり揺りうごかして下腹をねらい、その枝は手のように肘をまげて乳の先をまさぐっている。そして、樹根は恥骨をたたきながら、「どうだ、俺のは太くて固いだろう。内蔵助の痩せっぽっちは色男のように見えるけれども、あの日干しのみみずのようなのは話にならぬ」と、得意がっていよいよ太く大きくふくれてゆくようにみえる。そしてその古怪な亀頭がいかにもそこに嗅ぎ寄って、目をつむって匂いをたのしんでいるようなのがおかしい。光琳が事実こんなきもちでこの絵を描いたことは、なによりもこの絵じしんがもっともよく示している。この絵をしばらく見ていると、まったくそういうふうにみえる。というのは、ほんとうに光琳がそういうきもちでこの絵を描いたからにほかならない。実際女の肉体は、股のあたりに顔をつけて上方を望むとこんな形に見える。
 (中略)光琳はそのものとしては描かないけれども、つねに花鳥山水の形で示唆している。彼の絵はたいていそれを含んでいる。それをどこかにおもしろく隠している。しかもさらによくみると、水の流れの光琳波が乳房の所では大きく波うって白梅の把握をもとめ、樹根のはげしい息吹を感ずる下腹の辺りではこまかくささめいてときめきふるえ、また、紅梅をはねかえす尻の所では楯のように竝立するなど、波の形のおもしろい変化が、女体の各部位のさまざま異なる感動をじつに微妙に的確にあらわしている。それはまったく二人の中に寝そべったさん女の芳烈な肉体というほかはない。光琳は白梅の太い根が自分の根であることを念押しして強調するために、そのすぐ下にまちがわぬように法橋光琳と署名している。
(後略)」

 とまあ、こんな風に見ておられるわけです。最後の一文はかなりおもしろかったです。普通の読み物として読んでも十分耐えうるクオリティを持っていますね。

 この論文は一度読むと読者の脳裏に摺込まれてしまって、その後はどうしもうもなくなってしまうのです。だから、読まないほうがよいかもしれないと言ったのに...。

 ということで、おもしろかったでしょ?

 次回は何をしましょう?福岡市博物館で雪舟の関連の展覧会があるので雪舟をやってみましょう?

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<参考文献>
光琳と乾山『小林市太郎著作集』6
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2006年02月12日

紅白梅図屏風の見どころ(4)

 みなさん。おはようございます。

 今日は今私が一番興味を持っています紅白梅図屏風の「地」について考えて見ましょう。

 先回の記載で、「流水文の謎」についての話題を取り上げました。今回は「地」の部分の謎について関連するところですので、先回の内容も思い出しながら進んでいってください。

 紅白梅右隻kirinuki.jpg 紅白梅右隻kirinuki部分.jpg

 もともとは、流水文の技法を調べようとした光学調査の「ついで」に行った調査の副産物が「地」の謎を呼んだそうなのです。で、「何が謎なのか?」勘の鋭いみなさんならば、もうお察しのことでしょう。そう、「地」の金箔とされている部分が果たして「本当に金箔なのか?」ということです。

 流水文の部分からは銀の成分が検出されなかったことから、「銀ではない」ことはほぼ決まりですが、この金地からは多少金の成分が検出されています。

 つまり、金は使われているということです。「何が言いたいのか」ですが「地」の部分が金「箔」で作られているのか。金「泥」と黄色の着色で作られているのか。ということです。

 どちらも同じ「金」ではないかと思われるかも分かりませんが、箔と泥ではエライ違いなんです。何が違うかというと基本的なところでは「箔」は金箔を貼って作られます。「泥」は筆を使って塗っていきます。したがって、「箔」には重なって濃くなる部分(箔足)ができるし、「泥」は普通に塗れば箔足はできません。

 紅白梅図屏風、実物を観ていただければよく分かりますが、箔足が見えます。けれども、現代の常識からしてみると、「箔」にしては金の含有量の数値が明らかに低いのです。さらに、箔足の部分は金が重なっているから、通常は金の含有量の数値が倍になるはずなのに必ずしもそうなってはいないのです。

 「これは一体なぜか?」

 このことが今、話題になってなっている紅白梅図屏風の謎なのです。

 これが、もしも金箔だとすると今の技術力では到底作り出すことが不可能な極めて薄い金箔を江戸時代の職人たちは作っていたということになります。それはそれですばらしい発見だといえるでしょう。

 一方で、これが金泥と黄色の着色であったとすると、「なぜ、わざわざ箔足を描いたのか」が興味を惹くところです。

 鑑賞するみなさんとしては、どちらなのかも見てみると良いと思いますが、このような現代の常識から外れた江戸時代の趣向をこのあたりから感じ取って楽しんでいただけたらよいのではないかと思います。

 江戸時代って意外と豊かで人々が生き生きとしていた時代だったんですね。それで、光琳絵画とか松浦図屏風とか彦根図屏風とか若冲とかが生まれてきたんでしょうね。そうやって考えると江戸時代ってとてつもなく大きなエネルギーをその時代の中に含有していたといえるでしょう。現代の私たちの社会よりももっともっと生き生きとしたエネルギーを。

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2006年02月08日

紅白梅図屏風の見どころ(3)

 今回は紅白梅図の構図から光琳のデザイン感覚を見てみましょう。

紅白梅左隻.jpg 紅白梅右隻.jpg

 一見しただけで、光琳の構図は上から下へと私たちの視線をいざなっていくような構造だと見て取れますね。光琳以前までは、一つの連続した画面を真ん中で切ってしまうような方法はほとんど行われていなかったといってもよいでしょう。

 少し抽象的な言い回しになってしまったので紅白梅図に戻りましょう。つまり、二隻の屏風があって、その対になっている二つの屏風は画面がつながっていますね。けれども、二つを並べた時に上から下へ流れていく水流によって画面が分断されています。これは、衣装表現を絵画の中に持ち込んだせいだという説があります。つまり、衣装は縦にモチーフを配置するのです。衣装は縦長なので当たり前といえば当たり前なのですが。 光琳衣装.jpg

 さらに言えば、水の流れは向こうから流れてきて、こちらに流れていますね。その左右の白梅も紅梅も枝が画面から外に飛び出て躍動しています。

 こんな風に画面の中だけでそれぞれのモチーフをきっちりと納めるわけではなく、観ている私たちに画面の外へと意識をいざなっています。根本的な意識は異なるかもしれませんが、この外へと鑑賞者の意識をいざなおうとする手法は光琳だけではなく、宗達にも見られる手法だといえるでしょう。
 
 実は尾形光琳と俵屋宗達は生きた年代は違えど、全く無関係ではないのです。詳しいことはその後に回しますが、どうやら、光琳は幼い頃から宗達の絵画に接していたようです。その辺りに光琳の画面の外へとモチーフが躍動していくヒントがあるのではないでしょうか。

 光琳は宗達の風神雷神図屏風を模写していますが、風神雷神が乗っている雲がどちらも画面の外へと躍動しています。その雲を描く意識は宗達と光琳では全く異なっているともいえます。

 その違いとは何でしょうか?こういった謎を調べたり発見したりすることも美術を観る醍醐味の一つだといえるでしょう。調べてみてください。

宗達風神雷神

soutatu.jpg

光琳風神雷神

光琳風神雷神.jpg

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2006年02月06日

紅白梅図屏風の見どころ(2)

 みなさんこんばんわ。早速、先回の続きをはじめましょう。

  紅白梅右隻kaizou.jpg 紅白梅右隻水流部分.jpg

 先回は流水文と光琳の関係を見ましたね。今回はその流水文にまつわる謎について考えて見ましょう。

 まずは流水文の暗い部分を見てください。

 専門家の間では、数年前まではその部分が「製作当初は銀色で、その銀が時と共に酸化して黒くなった」という説と、「最初からわざと銀を酸化してこのような色にした」という説が有力でした。

 酸化とはつまり、「さび」のことで、銀が酸化すると「黒」に変色します。意図的にしたのか、想定外のことだったのかという議論がされていたのです。

 この黒い部分がもともと銀だったとすると、銀色の水流に金色の月明かりが映える何とも美しい景色だったことでしょう。と、考える人たちが多かったのです。実際、私もそうだとばっかり思っていました。

 三年くらい(だったと思います)前に、特殊な金属を量る装置を使って紅白梅図屏風が測定されました。けれども、金属の反応が全くありませんでした。と、いうことは...

 そう、この部分は金属ではないということです。つまり、初めから銀色には塗られていなかった。初めから濃い紺色だったということになります。学芸員が銀だ銀だといっていた真っ只中で、画家の間では実しやかに「あれは清穆(せいぼく)ではないだろうか」と囁かれていたそうです。清穆とは中国で発明された新しい(光琳当時)墨で藍色の成分が強く現れる特徴を持ちます。

 つまり、専門家が言っていることでも必ずしも正しいとは言えないのですね。

 まだ、この紺色?黒色?の材料は何か決定できておりません。みなさんも一度じっくりと眺めてみてはいかがでしょう?

 では、なぜ黒色にしたのでしょう?

 これも、はっきりとした定説はありません。分からないのです。そのような現状であることを念頭に入れながら、私が賛同する説を紹介しましょう。

 この水流の黒色は「夜」を表している。これが私の賛同する説です。つまり、水流の黒色の部分は「夜空」を反射しているのです。そして、金色の地の部分と、水流の金色の部分は「月明かり」を表しているということになります。そこに、白梅と紅梅が浮かび上がるそんな幻想に浸れるかもしれません。

 そんな風にイメージして一度、紅白梅図屏風を眺めてみてはいかがでしょう。現在、静岡は熱海にあるMOA美術館で公開中です。この機会を逃すと、次に見られるのは来年です。

 ということで、次回は光琳の画面構成について見ていきましょう。

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2006年02月03日

紅白梅図屏風の見どころ(1)

 長い間ご無沙汰しておりました。ここ何日間か、私の人生の一つのターニングポイントを迎えていたことで、更新できませんでした。今日からまた、元気に更新しますので、興味のある方々はまた付き合ってやってくださいませ。

 さて、先回告知いたしました通り、今回は紅白梅図屏風の中心部に配置されている水流について見てみましょう。

 紅白梅右隻kaizou.jpg 紅白梅右隻水流部分.jpg

 左側が紅白梅図屏風の右隻で、右側が白線で囲んだ辺りを拡大した画像です。

 先回記したように、本図は「金地着色」ということになっているので、その言葉どおり受け取れば、水流の金色の部分は金箔の「地」の部分ということになるのでしょうか。その上から、紺色で水流の「暗」の部分を描いています。

 この水流は「観世水流文様」とか「流水文」といった呼び名で呼ばれる文様です。この文様は、光琳の代表的な模様で、私に言わせて見れば「これぞ光琳!!」というものの一つです。

 水流の暗い部分から浮かび上がってくる金色の部分は大小の同じ「ような」かたちが繰り返されているように見えます。このような同じかたちを繰り返すのも光琳の感覚の一つと言えるでしょう。

 では、このような感覚はどこからやってきたのでしょうか?

 光琳の実家は「雁金屋」という染物屋でした。光琳も弟の乾山も雁金屋の跡継ぎにはならなかったのですが、光琳はそこで、染物屋の衣装のデザインを学んでいたのでしょう。

 水流のように、大小の同じかたちを繰り返すデザインは、まさしく衣装の染物のデザインに使われている「型紙」と呼ばれる道具を使って表す方法を絵画に使ったのだと考えられています。

 型紙の性質を絵画の制作に利用することは紅白梅図屏風だけでなく、群鶴図屏風など多くの光琳の絵画に使われています。燕子花図屏風もそうでしょう。

 この紅白梅図屏風の水流を縦に配置するのも、衣装にデザインをするときの独特の表現とも言われています。そのように、この水流のデザインには以上のような光琳の出生の経歴が込められているのです。

 長くなりそうなので今日はこの辺りにしておきましょう。また次回に続けましょう。次回は本当に「金地」だったのかということも含めて、水流を見ていきましょう。

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2006年01月27日

紅白梅図屏風―尾形光琳

 先回告知しました尾形光琳の紅白梅図屏風について、そろそろ始めたい多と思います。

 紅白梅左隻.jpg 紅白梅右隻.jpg

 尾形光琳筆、国宝、紙本金地着色、二曲一双、各156.5×172.5p 熱海・MOA美術館

 少しデータの見方を解説をしましょう。

 尾形光琳筆→作者

 国宝→国の評価。あと、(国指定)重要文化財(重文)とか県指定・市指定という重要文化財、重要美術品とかいうのがあります。

 紙本金地着色→紙がキャンバスとなっていて、金で「地」をつまり下地を塗っています(金箔のときがほとんどですが)。その上に絵を着色で描いています。ということです。水墨画なんかだと「紙本墨画」とか「紙本墨画淡彩」となります。

 また、キャンバスが絹でできているときは「絹本(けんぽん)〜」という風になります。

 二曲一双→二曲とはつながっていて折りたたむようになっている部分の数です。一双とはそれが二つでセットになっているということです。屏風一つ分は「隻(せき)」という単位で数えます。つまり、「隻」が二つ一組で「双」なんです。

 各156.5×172.5p→これは大きさですね。屏風が一双ですから、「各」と複数で表しています。

 MOA美術館→所蔵場所です。大体、美術館・博物館とかお寺が多いです。時々「個人蔵」という所有者が個人のときもあります。「茂吉岡田アソシエイション」だそうです。詳しくはこちら

 以上、基礎データの見方を記しておきました。

 これからの予定としては、

 1.水流について
 2.光琳の画面構成
 3.かたちのおもしろさ
 4.背景の謎

 について、見ていきたいと思っています。

 では、今回はこのへんで。また下の広告をクリックしていってください。

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